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YASUの呟き No. 02

正常細胞ががん細胞を駆逐する
リスキーな研究を自由に進めるために海外へ

クリニックマガジン 2010年4月号
「北徹の医学フロンティア2010」より

ホスト 北 徹氏(京都大学名誉教授・神戸市立中央市民病院院長)
ゲスト 藤田恭之氏(ロンドン大学・分子細胞生物学研究所・医学研究評議員)

「正常細胞ががん細胞を駆逐する」。
英国ロンドンに自分の研究室を構え、オリジナリティの高い研究を進める藤田恭之氏。今月号から始まる本シリーズでは、北徹氏が将来を嘱望される若手の医学者を招いて最前線の研究や治療の現状をインタビューする。日本と英国で医学研究を取り巻く環境はどれほど違うのか、藤田氏がめざす新しいがん治療とはいかなるものか、サイエンスへの情熱が伝わってきた。(編集部)

北  藤田恭之先生は80人に2人という難関を潜り抜けて、英国ロンドン大学に自分のラボを持ち、がんの基礎研究をされています。京都大学医学部の出身で、短い間でしたが、私が教授を務めた老年科で研修されました。まず、医師になった理由を聞かせてください。
藤田はっきりとよく覚えていませんが、小学3年生頃から医師になりたいと思っていました。子供の頃に多くの伝記を読み、なかでもシュバイツアーの伝記を読んで病気を治そうと強く思うようになりました。
北  ご両親の教育成果ですね。医学部では最初から研究者志望だったのですか。
藤田最近、高校2年生の時の日記を読み返すと、「夢は二つある。それを20年後に実現できていれば自分を尊敬するだろう」と書いていました。ひとつは外国の研究所でがんと闘っている自分、もうひとつは、アフリカで恵まれない人のために汗をかいて医療を提供している自分、です。子供っぽい夢だと思うのですが、基本的には今もそうです。
北  なぜ、がんを研究テーマに選んだのですか。
藤田医学部入学までは、がんは治療が難しい病気という漠然としたイメージで研究したいと思っていました。京大に入学してからは、当時、私たちの年代は神経を研究するのが流行りでしたから、人と違うことをしたいという思いで、がんを選びました。
北  私は藤田先生を学生時代から知っていますが、卒業前にアフリカにAIDSの実態を見に行ったのですね。それで帰国後、老年科の研修2日目に出てこなかった。家に電話したら高熱で寝込んでいるという。初めはラッサ熱かデング熱ではないかと心配し、次に病棟医長の吉岡君がマラリアの疑いがあると血液検査したら、まさにマラリアでした。岐阜大学医学部に寄生虫の専門家がおられることを知っていたので、医局員に薬を取りに走らせた。
藤田それは結局効かなくて、キニーネが効きました。いずれにしても先生方に助けていただきました。ありがとうございました。
北  がんの研究をしたいと思っていたのに、なぜアフリカへ?
藤田いえ、研究とは関係なく、昔からのもう一つの夢を叶えるべく純粋に一度はアフリカで医療に携わってみたいとボランティアに応募しただけです。実は、マラリアになったのに懲りることもなく、大学院を始める前にも2ヶ月間、再度ウガンダで ボランティアをしました。
北  半年で京大病院の老年科から舞鶴市民病院に移ったのは、なぜですか。
藤田当時、舞鶴市民病院の救急部に救急専門医が赴任したので、救急医療が3ヶ月間研修できるという話で行ったのですが、なぜか気に入られてしまって、「お前ここにいろ」と。そこに3年いました。
北  基礎の研究者になるつもりなのに、「急がば回れ」で、臨床の勉強をしたということですね。
藤田がんの基礎研究をするのに、がん患者を診療した経験がなければダメだと思ったのです。ですから、舞鶴では「がん患者は私が診ます」と言って、実際、非常に多くのがん患者さんの主治医をさせて頂きました。それらの患者さんと接した経験は今の癌研究を支える大きな動機となっています。
北  次に、高井義美先生(現神戸大学医学部長)の研究室で生化学を勉強されました。
藤田厳しかったですね。舞鶴市民病院も日本で3本の指に入るといわれたハードワーキングで、休日も全くないくらいでしたが、高井研究室も負けず劣らずでした。
当時、京大はモレキュラーバイオロジーでDNAを扱うことが盛んでしたが、生化学をやっている研究室はあまりありませんでした。生化学はコールドルームに入って実験するので若い時しかできないと聞き、是非若い今のうちに生化学を学びたいと、北先生に高井先生をご紹介いただきました。
北  流行を追わずに、自分の信じた道に挑戦し続けるのが、藤田先生らしいところです。厳しくても挑戦する胆力を持っている。若い研究者に必要な資質です。その後、ドイツに留学しましたね。
藤田博士号を取得して、やはり世界に触れたい思いが強くなりました。京大の故月田承一郎先生に紹介していただいたベルリンのバルター・ビルヒマイヤー先生の研究室に入りました。
ドイツ時代は自分のキャリアの中で最も厳しい時期でした。研究所が統一後間もない旧東ベルリンにあったので秘書もテクニシャンもドイツ語しか話せず、なかなか意志が通じない。頼みたいことも頼めない時期がありました。東洋人は少なくて、実力がわかるまでは下に見られる傾向もありました。
最初に、教授に頼んでやらせていただいた研究がチャレンジングなもので、3年間、ほとんどデータがでなかったのも精神的に厳しかったです。
北  何の研究ですか。
藤田がん遺伝子アーブB2(ErbB2)のリガンドはまだ解明されていませんでした。その受容体は、他の受容体と結合した時だけ機能すると言われていましたが、もしかするとシグナルを抑制するタイプのリガンドがあるのはないかと仮説を立て、実験を行いました。受容体を刺激してシグナルを増強するタイプのリガンドは発見しやすいのですが、シグナルを抑制するタイプのリガンドは発見しにくいのです。結局、スクリーニングのシステムは開発したのですが、スクリーニングをしても何も引っかかってきませんでした。未だに求めていた抑制タイプのリガンドが存在するのかどうかわかっていません。論文が出ないままでは、ポスドクのキャリアは終わってしまいますから、悲壮感漂う状況でした。
その頃北先生が、私が追い詰められている話を私の父から聞いて、「好きにやればいいよ。骨は拾ってやる」と言って下さったそうですね。実は、それを聞いてずいぶん気が楽になりました。
結局、別のプロジェクトに切り替えて、幸いこちらは論文にすることができました。
北  その内容を聞かせてください。
藤田細胞接着分子E-カドヘリンに結合する新しいたんぱく質です。解析してみたら、接着を外す作用を持つことがわかり、「Hakai(破壊)」と名付けました。細胞間の接着を外して、がん化の方向へ誘導する可能性があると思いますが、最終的に体内でどういう働きをしているかは、まだわかっていません。
北  ドイツに5年いた後、英国で今の研究室を持つわけですが、なぜ英国だったのですか。
藤田本当は日本に帰りたかったのです。とくに妻はそうだったのですが、私は手掛けたい研究テーマもあったので、自分の力でサイエンスができる環境を求めていました。日本では、30代の若手が独立できる環境はあまりありません。助手や助教授として誘っていただく話はありましたが、自由に自分のやりたい研究はできないだろうと思えました。だから日本の大学からの話はお断りして、退路を断った感じでした。
ある夜、たんぱく質の電気泳動を流している間、暇に任せて『ネイチャー』を開いたら、最初の頁に「ラボのグループリーダー求む」という広告が出ていました。広告主は、当時ロンドン大学MRC研究所長をしていたアラン・ホール先生という有名な研究者でした。応募〆切が1週間後だったので、「暇だから応募書類を書いてみるか」と。たまたま夜遅くまで実験していて少し時間が余っていたから広告を見た。運命ですね(笑)。
北  全くの偶然だったと。しかし、選ばれるまでは、相当の試練があったようですね。
藤田選考のインタビューは厳しかったですね。書類選考で80人から12人に絞られましたが、後で聞いた話では、私はHakaiの論文1つしかないから、最後にギリギリ引っ掛かったようです。次にセミナーがあり、Hakaiの仕事を話して何とか最終候補4人に残りました。最後がチョークトークです。ホワイトボードとペンだけ渡されて、「何をしたいか2時間話せ」と言われました。
北  2時間は長いですね。
藤田しかも、研究所の幹部やグループリーダーたちから、聞き慣れないブリティッシュ英語でどんどん質問が来ます。異様に厳しい質問をする人もいました。
「お前の研究はどこが面白いのかわからない」と言われ、私も「この面白さがわかる知能があなたに欠けているのは残念だ」と言い返しました。これも、あとで知った話ですが、彼女はその時最終選考に残っていたほかの友人を応援していたのですね。逆にそれが幸いし、他の審査員には、「藤田にはパッションがある」と映ったようです。
今では私もグループリーダーの一人として審査に立ち会いますが、人間としてのタフさを見るのが、研究所のカルチャーでした。
北  英国での研究のプロフィールを教えてください。
藤田これは大学院生のときから温めていたアイデアですが、自分のラボを持ってようやく取り組めるようになったものです。
現在、がん研究者の主なターゲットはがん遺伝子です。ほとんどの研究は、がん遺伝子またはがん抑制遺伝子の変異が、細胞にどのような影響を与えるか、という方向で行われています。その知見を基にして、がん細胞と正常細胞の違いを見つけ、がん細胞だけを叩くという治療戦略です。
私は、皆さんと同じような研究にはあまり興味がありません。
私が着目しているのは「がん細胞と周囲の正常細胞は互いにどう感じ合っているのか」です。
実はこれを着想したのは大学院時代、同じ研究室にいやな奴がいたからです。ある日、彼の態度に立腹して、トイレで「あいつは癌やな。どうやって駆逐してやろう」と呟いた途端、がん細胞と正常細胞の関係を連想しました。人間社会では、ものすごく悪い奴は警察が取り締まるが、チョイ悪くらいなら、周囲の人間がなんとかしようとします。ヒトの体に例えると、免疫機構は警察です。それなら、チョイ悪のがん細胞には周囲の正常細胞がなんらかの働きかけを行うのではないか――このアイデアがひらめいたのです。
北  誰も取り組んでいない研究テーマですか。
藤田調べた限りではそうだと思います。リスキーな研究ばかりでは生きていけないので、他の研究もしていますが、最近、幸いにもこのテーマで2つほど論文が出せました。実際に、正常細胞は、がん化した細胞を排除するような機構を持つことがわかりました。大腸ではがん細胞を便が通っている方へ、腎臓では尿が通っている方へはじき出すのです。また、ある種の変異では、がん細胞が正常細胞に囲まれた時だけ死滅することがわかりました。ショウジョウバエではこうした現象が起きることがいくつか報告されていましたが、今回、我々は脊椎動物で初めて同様の現象が起こることを証明しました。ただ、私たちの実験は培養した細胞レベルのものなので、実際に哺乳類の体内でそうなるのかどうかは、これからの研究課題です。ゼブラフィッシュの体内で起こることは確認しています。
北  この研究は、将来、どういった治療法の開発につながるとイメージしていますか。
藤田幾つかのがん遺伝子、がん抑制遺伝子に変異がおこった時に、 正常細胞にこれらのがん細胞を駆逐する力があることは明らかになってきました。これを進展させて、正常細胞の力を高めてがん細胞を駆逐するという新しい治療法を見つけたいと考えています。全く新たな概念ですから、興奮しながら研究しています。
北  非常に早期の小さながん細胞は、見つかってもいつの間にか消えていることがありますね。
藤田正常細胞の力なのかもしれません。まだ、今の段階で言うのは時期早尚ですが、私の理論を応用した治療法は、非常に早期のがん、それほどがん遺伝子が蓄積していない段階のがん細胞に有効なのではないかと考えられます。すでに細胞系のシステムはありますので、薬の候補物質のスクリーニングも始めようとしています。
北  正常細胞とがん細胞は、互いを何で認識しているのですか。
藤田それはまだ、わかっていません。たんぱく質かもしれないし、脂質かもしれません。もしかすると物理的な性状の違いでわかるのかもしれません。
北  登山で言えば、2合目か3合目に取り付いたくらいですか。
藤田そうですね。ただ誰も登っていない山です。現象としてあるのは間違いない、ということを確かめた段階です。
私はサイエンスに必要な要素はアイデアとバイタリティだと思います。面白いアイデアも初期段階では脆弱ですから、潰すのは簡単です。潰す人とディスカッションすると、「こういうデータもあるし、絶対失敗するよ」と言われますが、それを気にしていると何もできなくなります。面白いアイデアがあれば、「とにかくやってみる」バイタリティが必要だと思います。論文になったからこうして話していますが、モノにならなかったアイデアも数多くあります。
北  ところで、英国の若手医学研究者を取り巻く環境はどうなのですか。
藤田身分はリスキーな面もあります。私は最初の契約は5年契約で、成果が出せなければクビでした。成果が出せれば、テニアという定年まで雇用される身分になれます。 幸いなことに最近、ようやくテニアになれたところです。日本の大学は少なくともクビになることは非常にまれですね。
北  米国では、スタッフや実験動物は全て大学や研究所が用意してくれます。日本では、研究費の面も含めて研究者がこうした部分の確保に奔走しなければならないという背景もあります。
藤田英国も米国と同様です。日本では研究室ごとの縦割りになっていて、研究費も全て自分たちで賄っていく体制になっています。ひとつひとつの研究室が全ての設備や人を揃えなければなりません。
私のいる英国の研究所は、テクニシャンも顕微鏡も研究所が所有しています。所属するグループリーダーはそれを使って研究を進めれば良い体制ですから、お金のない若手が独立しやすい環境であることは確かです。私は35歳で独立しましたが、30代前半で独立する人もけっこういます。
北  サイエンスに対する考え方で、日英の違いを感じることはありますか。
藤田医学生の知識レベルは英国の方が高いでしょうね。卒業する頃には、私も太刀打ちできないような幅広い知識を持った学生がいます。ただ、働かない人が多いですね。プライベート時間と労働時間をはっきり分けていて、プライベートを優先させる人も多い。サイエンスで成果を挙げるには、ときには猛烈に働かなければならないこともありますが、多くの人は6時にきっちり帰っていきます。部下にするなら日本人の方がいいかもしれません。
個人主義なのです。自分の幸福がサイエンスの追求にあると考える人は、英国でもよく働きます。
北  サイエンスといえども、英国人にとっては仕事なのでしょうね。
藤田日本人は「求道者」というか、仕事に人生を重ね合わせるような人が多いのですが、そのメンタリティは全く通用しません。ですから、目の前の実験がいかに大事かを理論で説得しなければなりません。
北  ドイツと英国でも違うでしょう。
藤田ドイツ人はダイレクトな物言いをします。ある日、私が実験していると、学生が入ってきて「お前、いつ終わるのか」と言ってきました。よほど大切な実験があるのだろうと場所を譲りましたが、終わっても報告にも来ません。彼はただ単純に、私がいつ終わるか知りたかっただけなのです。慣れてくると、逆にそれが心地よくなります。考えをダイレクトに伝えてくるから、こちらもダイレクトに返せば良い。私はドイツで鍛えられてタフになったといえます。英国人の方が日本人的なところがあり、嫌っていてもニコニコしています。
今、私のラボには6-7人のスタッフがいますが、日本人は1人だけです。これまでのメンバーでは英国人が3割、あとはスペイン人、インド人、ドイツ人、フランス人、アルゼンチン人、アイルライド人と国際色豊かです。ヒューマンマネジメントだけは上達したかなと思います。
北  話を戻しますが、大学・研究機関の組織論でいえば、日英どちらが良いと思いますか。
藤田英国ではないかと思います。日本は教授の下に助教授や、助手という中間管理職がいて、彼らが大学院生の面倒を見ます。でも、ラストオーサーは取れない。人生で最も仕事のできる30代、40代の医学研究者の時間が犠牲になっている感じがします。欧米では大きな研究室でも、教授が自ら大学院生に直接指導しています。このあたりのシステムは、若手研究者の力をもっと引き出すために、日本でも今後改善していく必要があるのではないかと思います。
さらに日本も今後は、アジアをはじめとする世界各国からより多くの研究スタッフを受け入れるようにしなければ、国際競争に勝ち抜けないと思います。
北  ぜひ、今の研究を成功させて、将来は日本の研究環境の改善にも取り組んで欲しいところです。最後に藤田先生の夢を聞かせてください。
藤田私はがんの研究者なのですから、がん患者さんを治せなくては存在価値がないと思っています。今日、お話した基礎研究の成果を、早く患者さんを治すところまで持っていきたい。それまでは謙虚に貪欲に挑戦していきます。
サイエンスには、直接的には人の役に立たないものもあります。真理の探究だけを目的としたものも当然、あって良いのですが、私は医師からスタートしていますから、患者さんの役に立つ治療法を開発するまで、がむしゃらに頑張るつもりです。
北  期待しています。本日はありがとうございました。

 

  • 平成2年 京都大学医学部卒業
  • 3ヶ月間の京都大学医学部付属病院老年科での研修後、
  • 平成5年まで舞鶴市民病院救急部、内科勤務
  • 平成5年春、2ヶ月間ウガンダ共和国(医師としてボランティア)
  • 平成5-6年 京都大学医学部老年科(北徹教授)、大学院医学博士過程
  • 平成6-9年 大阪大学医学部分子生理化学教室(高井義美教授)、大学院医学博士過程
  • 平成9-14年 Max-Delbruck-Center (ドイツ)(Prof. Walter Birchmeier)、ポスドク
  • 平成14年-  MRC, LMCB, Cell Biology Unit, University College London グループリーダー

updated : 2010/05/14