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YASUの呟き No. 05a

ヤスの呟きNo.4 とNo.5は私が臨床医時代に執筆したエッセイです。ちなみにサイエンスには関係ありません。
暇つぶしに読んで頂ければ幸いです。実は、この二つの他にも「小指の思い出」と「XXX喪失事件」というエッセイがあるのですが個人情報漏洩および教授としての品格を疑わせる記載が含まれているので掲載することができません。興味のある方は藤田研に入りましょう。

「散華」(前編)

平成三年十月四日午後十一時過ぎ。その日私は救急部の当直に当たっていたが、それまでは非常に落ち着いており、そろそろ当直室で横になろうとしていた時のことであった。
「先生、患者さんです」
「どんな人?」
「若い男の子ですけれども、お腹が張るといってはります。お母さんが付き添ってはりますわ」
 私はソファーから立ち上がって、(食べすぎかなぁ、それとも胃潰瘍か胃炎かなぁ。どちらにしてもこの時間帯では胃カメラもできへんし、ガスターくらいで帰ってもらわんとしゃーないなぁ)などと考えながら、診察室へ向かった。
「児玉秀樹(仮名)さん、どうぞお入りください」
 入ってきた彼はなかなかかっこいい男の子だった。髪に今風に軽くパーマをかけ、いわゆるジャニーズ系の容貌だった。
「どうされましたか?」
「あのぅ・・・九月の半ばくらいからお腹が段々と張ってきて、なんか食事も入らなくなってきたんです」
「吐き気はどうですか?」
「少しあります」
「便はどんな感じですか?」
「特に変わりませんけど・・・」
「食欲はどうですか?」
「一気に食べるともたれるので少しずつ食べてます。でも、昔と比べたら八キロも体重が増えたんです。食事をした後にお腹が張ってえらいんです。げっぷが出ないでお腹に溜ったような感じです」
(八キロも増えた? 一体・・・)
「そこにお腹を出して横になってください」
 ややぽっちゃりとしたお母さんが心配そうに、
「九月十九日にX医院に行って胃カメラをしてもらったら胃潰瘍があると言われて、お薬をもらったんですけれどもお腹の張った感じが段々強くなるようで・・・。来週に職場の研修旅行があるのですが、その前に診てもらっておこうと思いまして・・・」
と言った。

(こ、これは・・・!)
 彼のお腹を見て私はビックリしてしまった。お腹は本当に張っていた! まさに蛙腹。お腹の皮膚はパンパンにはちきれそうになっており、打診上もその下に腹水が充満しているのがよく分かった。
(一体これは何だろう? 肝硬変かなぁ・・・それなら先天性の肝病変ということになるが。ネフローゼもありえるなぁ。心不全には見えないし・・・。結核性の腹膜炎? それとも悪性疾患か? ・・・・・・)
 とりあえず腹水を検査に出し、その日は帰宅してもらうこととした。
「研修旅行は行けるでしょうか?」
「いやいやとんでもない! これは治療を必要とする病気だと思います。明日検査の結果が出ると思いますが、まず入院になると思います」 「えっ? そんな・・・」
 お母さんも、穿刺にて得られた黄色の腹水を見てようやく事の重大さを理解し、顔付きが変わってきた。彼はまだ自分が重症の病気に掛かっていることを認識していないのか、平気そうな顔をして、心配そうなお母さんを抱えるように救急室を出ていった。
(一体、何の病気なのだろう? あの若さであの腹水。滅多にない病気であることは間違いないだろう・・・)

 翌日、その日一診だったK先生にその患者のことを話し、
「面白そうな症例なので入院になったら僕に主治医をさせてください」
と頼んでおいた。

 午前十時頃ポケットベルが鳴ったので一診に行ってみるとK先生が渋い顔をして、
「今、検査科からadenocarcinomaやと報告があったわ」
とボソッと言った。
「ということは・・・胃ガンからの癌性腹膜炎・・・?」
「印環細胞も出ているからまず間違いないやろ」
「ハーッ・・・・・・それは厳しいなぁ。あの若さで! 途方もなく悲惨やなぁ・・・。ちょっとなぁ・・・かわいそうやなぁ・・・。たまらんなぁ」
 K先生が顔を上げ、髭に笑みを浮かべながらこう言った。
「ところで藤田、主治医になりたいって言ってたなぁ」
 その日から彼と一緒に病気と戦っていく、本当に辛くて長い日々が始まった。

 その翌日、お母さんを内科外来に呼んでムンテラを行った。
「実は・・・かなり悪い病気なんですわ」
 その一言で場の空気が凍りついた。お母さんは上体を反らせ、息を飲み、目を開いて次の言葉を待っている。
「胃癌なんです。それもかなり進行した状態で、お腹の中に水が溜ってしまっていて、もう手術も出来ないんです」
「そんな・・・。そんなに悪いんですか?」
「えぇ残念ながら・・・」
「なんとか治療で治らないんですか?」
「・・・難しいと思います。もうかなり進んでいるので・・・」
「手術は絶対に出来ないのですか?」
「無理ですわ」
「他の病院でも無理でしょうか?」
「残念ですが・・・」
「そんなに悪いとは思ってなかった・・・。そんなに悪いなんて・・・」
 お母さんは、目を伏せて深い溜息をついた。
「それでは、あとどれくらい生きれるんですか?」
「もうかなり進んでるので・・・長くて四ヶ月、短ければ一ヶ月ほどだと思います」
「エッ! そんな・・・・・・。何で・・・。嘘みたいだわ・・・」
 彼女は、頬を涙で濡らし、最初のうちはショックでかなり動転していたが、話しているうちに徐々に立ち直り、『わたしが息子を支えて行かなければいけない』という強い母性本能が顔に現れて来るようになった。私は、目尻に涙を溜めながらできるだけ優しい口調でこう言った。 「残念ながら、もはや彼には限られた時間しか残されていないのです。辛いとは思いますが、この事は受け入れていかなければいけないことなのです。今後は、とにかく残された時間をより有効に、充実して送れるように、周りのものがしっかりと気を持って彼を支えて行かなければならないと思います。これから家族の方も大変だとは思いますが、一番大変なのは彼なので、一緒に頑張って看護して行きましょう。私も、できる限り苦痛が少なく、時が過ごせるように精一杯できる限りのことはさせて頂きます」
 それから、今後のことや、どのように告知するからついて、小一時間程お母さんと話し込んだ。結局、家族の強い希望で、彼には告知しないこととなった。

「先生、もうお腹が張ってどうにもならないですわ。えらくてえらくて・・・。しゃがむと下腹も痛むんです」
 入院した次の日、ベッドサイドに行くと、私が来るのをずっと待っていたように彼は直ぐに訴えた。お腹はもうパンパンに張り詰めていた。
「そうですか・・・かなり水が溜っているみたいやねぇ。すぐに水を抜いてあげるから」
「先生、誰にでもお腹に水は溜っているんですか?」
「いや、そんなことはないけれど・・・」
「それじゃあ、何で・・・。一体、僕はどんな病気なんですか?」
「お昼過ぎに検査の結果が返って来るから、それから家族の人と一緒に説明させてもらいますから」
 彼は、不安そうにうなずいた。

 その日の午後一時過ぎに、三階の図書室で彼とお母さんを呼んでムンテラを始めた。彼はじっと私の顔を見つめ、私の言葉を待っている。その顔には、不安が宿っていたが、それ以上に真実を知りたいという強い気持ちが浮かび上がっていた。お母さんは、じっと目を伏せている。
「児玉君、実は・・・かなり厄介な病気みたいなんですわ。非常に稀な病気なんだけれども、『腹水産性腫瘍』という病気なんです」
 昨日下宿に帰ってから、三時間ほど考えに考えて作った病名だった。彼は眉をひそめ、首をかしげた。
「聞いたことあるかな?」
「いやぁ、ないですけど・・・」
「この病院でも、時々、あるくらいなんだけれどもね。腹腔内に、腹水産性腫瘍という腫瘍ができ、それが腹水を作って徐々にお腹の中に水が溜っていく病気なんです」
「治るんですか?」
「この腫瘍は、癌のように悪性のものではないんだけれど、良性ではなく、少し質の悪いものなんです。治療は、抗癌剤のような薬を使って腫瘍を叩いて行くことになるんだけれども、どれくらいで完治するかは治療をしてみないと分からないですわ」
「大体どれくらいかかりますか?」
「そうですねぇ・・・早くて半年くらい、長くかかると二年くらいになることもあります」
「エッ、そんなに・・・困るなぁ」
「でも病気なんだから、しっかり治して行かないとあかんしね。頑張って行こう、秀樹」
 お母さんの言葉に、彼は小さくうなずいた。
「病気が落ち着いたら、外来でも治療できるし」
「それやったら、働きながらでも治療受けれますか?」
「そうやね。ただし、病気が落ち着いてからですよ。そんなにお腹が膨れていたら働けないやろ」
 私の言葉に彼はニコッと笑った。『暫くしたら働けるかもしれない』と聞いて少し彼も安心した様だった。働き始めてすぐに仕事を休まなければならないことが、かなり気にかかっていた様だった。
「治療の経過の中で、かなり吐き気が強くなったり、毛が抜けたり、一時的に腹水が溜ったりすることがありますが、最終的には絶対に治るから心配しないでください」
「毛が抜けるのはかなんなぁ」
 髪の毛を押さえて彼は呟いた。
「大丈夫。また直ぐに生えて来るから。厄介な病気だけれども、病気になってしまった事はもう仕方ないから、頑張って一緒に闘って行きましょう。絶対に治してあげるから」
 彼は、真直ぐに僕の目を見つめ、しっかりとうなずいた。

<一九九一年 十月>
 腹水は抜いても抜いても直ぐに溜った。一回にサーフロー針で一リットル近くの腹水を抜いても、二、三日後にはもう直ぐに同じように溜って来るといった具合だった。腹水を抜いた時には一時的には腹部の張った感じが楽になるものの、また直ぐに、しんどくなって来るのであった。
 そこで、腹腔内へのパラプラチンの投与を行ってみたところ、腹水の増える速度が明らかに遅くなってき、彼の食欲も少し回復してきた。
 しかし、月末から、少し吐き気を覚えるようになっていった(その吐き気は、その後、徐々にきつくなっていき、彼を最後まで苦しめることとなった)。また、その頃から、家族の強い希望により、丸山ワクチンの投与を開始した。

 十月二十八日、状態は決して良くはなかったが、彼の強い希望もあり、一旦退院することとなった。

<十一月>
 月日は流れ、寒い冬が近付いてきた。暫くは彼の状態も落ち着いていて、外来でも冗談を言い合ったりすることもあった。
 しかし、十一月の中旬より、咳が出るようになり、次第に呼吸苦も訴えるようになった。胸部X線にて両側に比較的多量の胸水の貯留を認めた。
「児玉君・・・レントゲンで見たら胸に水が溜ってるわ。咳が出たり、息がえらいのも、胸水のせいやね」
「エーッ! 胸にも水が溜っているんですか?」
「この病気では、経過中に胸にも水が溜ることは珍しいことではないんですわ。胸にもお腹と同じように、抗腫瘍薬を入れてやったら水は引くし」
「今度は胸ですか・・・」
 彼は、ハーッと小さく溜息をついた。その溜息が、私を責めているように聞こえ、胸がチクリと痛んだ。

 十一月二十六日に入院し、左右それぞれ2リットルずつ胸水を除去した後、胸空内にパラプラチンの投与を行った。これは、彼にとってかなりきつい治療だった様だが、しばらくすると咳や呼吸苦は和らいできたようだった。しかし、この入院中は、彼も自分の病気が徒ならぬ物であることを再認識したようで、会いに行っても言葉数が少なく、窓から遠くを見たり考え込んだりしていることが多かった。

<十二月>
 胸腔内への化学療法の効果か、咳や呼吸苦は治まってきた。しかし、十二月の中旬から腹水の貯留と食欲不振は再び増悪してきた。もう完全に手詰まりであった。
「何とか良い手はないものだろうか? あんなに若い、あんなに性格の良い子が、こんなに早く人生を終わってしまうなんて・・・! 何とか、本当に何とかしてあげたい・・・」
 様々な文献をあたり、他の先生の話を聞いたりし、必死で良い方法がないものかその可能性を探った。そして、MTX・5FUの大量交替療法という、かなりきつい抗癌剤の投与を行うことになった。今の体力が落ち、腹水が溜まりに溜まっている状態では、非常に危険性も高かったが、彼がまだ二十一歳という若さであることからその投与に踏み切った。
 十二月二十日、四回目の入院だった。この頃は、腹水の貯留もきつく、毎日1リットルの腹水を抜かなければならなかった。彼は個室に入っており、腹水を抜く時は私と二人きりであることが多く、この十五分ほどの時間は、彼とじっくり話ができ、彼のこれまでの生活や、今考えていることなどを聞くことのできる貴重なひとときであった。

「あ、雪が降ってきたなあ・・・。舞鶴は雪が降るのが早いんやなあ」
「先生は舞鶴の人やないんですか?」
「僕は大阪の高槻の出身なんですわ。僕の田舎ではこんなに雪が降らへんし」
「雪が降るとバイクに乗ってる時に大変なんですよ。もう寒くて寒くて」
「そう言えば、児玉君はバイクに乗ってるんやったね。ツーリングとかよく行った?」
「ええ。仲の良い連れとよく行きました。でも、この前家に帰って、バイクを起こそうとしたら全然力が入らへんで起こせへんかったですわ。すごく体力が落ちてるのが分かりました。体重も今は50キロくらいしかあらへんし。前は60キロくらいあったんやけどなあ」
「まあ、心配せんでも病気が良くなってきたらまた元に戻るよ。児玉君は高校時代は何かスポーツやってたん?」
「バドミントンをやってました」
「えっ、ほんま? 僕もバドミントンやってるんや。強いんか?」
「高校の時はまあまあ強かったけど、もう暫くやってへんから駄目やと思いますわ」
「もったいないなあ。また病気が治ったら、僕と試合しような」
「ええ」
「ほんなら、専門学校の時はどんなスポーツをしてたん?」
「特に・・何にもしてなかったです」
「暇やったんちゃうの?」
「ええ。パチンコに行ったり、連れとブラブラしとったりとか・・・」
「付き合ってる娘はいなかったん?」
「いなかったです」
「嘘やろ」
「ほんまですよ!」
「でも、君はかなり男前やし、性格も優しそうやから、女の子にもてるタイプやと思うけどなあ」
「うーん・・・。全然何もなかったですわ。合コンとかも時々行ったけれど、そのあと付き合ったりとかはなかったなあ」
「どんな女の子がタイプなん?」
「そうやなあ・・・優しくて、可愛くて、活発で・・・」
「理想が高いんとちゃうかなあ」
「そんなことないですよ!」
「芸能人やったらどんな娘が好きなん?」
「安田成美とか・・・」
「看護婦さんで誰か好きなタイプの人いる?」
「ええほらあの(***彼と秘密だと約束した***)」
「ふーん・・・。なるほどね」
「誰にも言わんとって下さいよ!」
「分かったよ。こう見えても口は堅いから。さて、もうそろそろ充分かな。2リットルほど取れたし。どうや、楽になったかな?」
 彼はお腹をなでて、溜息をついた。
「小さくなりましたね。だいぶ楽になりましたわ。すぐに大きくなるやろうけど・・・・・・。先生・・・僕はやっぱり治りが悪い方なんでしょうね。何か良くなるどころか段々としんどくなってくる様な気もするんですけど・・・」
「そんなことはないよ。波のある病気だけれど、最後には絶対に良くなるから。今は本当に辛抱のしどころなんや。もうちょっと頑張ってな」
「はい」
 雪は次から次から風に舞いながら、狂ったように降っていた。


(後編へつづく)

updated : 2011/02/02