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YASUの呟き No. 05b

ヤスの呟きNo.4 とNo.5は私が臨床医時代に執筆したエッセイです。ちなみにサイエンスには関係ありません。
暇つぶしに読んで頂ければ幸いです。実は、この二つの他にも「小指の思い出」と「XXX喪失事件」というエッセイがあるのですが個人情報漏洩および教授としての品格を疑わせる記載が含まれているので掲載することができません。興味のある方は藤田研に入りましょう。

「散華」(後編)

<一九九一年一月>
 吐き気が徐々にきつくなってきた。ほんの少し食べただけで戻してしまうため、彼は食事をするのが嫌になってしまった様だった。私は、本来は、悪性のもう助かる見込みのない患者に対してはIVH(中心静脈栄養法)を施行しない方針なのだが、まだ少ししか人生を生きていない彼に対しては、もう少しの間でもこの世で命を輝かせてあげたい、という気持ちがどうしても強く、悩みに悩んだ末、IVHに踏み切ることとした(この方針に対しては、看護婦さんの中には反対の人も少なくないようだった)。抗癌剤の投与のためか腹水の量は少しは減ってきたが、副作用の下痢が強烈に彼を苦しめ、また、髪の毛が抜けていくこともかなり苦痛の様だった。
 病気に苦しむ彼を見ると、
「どうして彼のように、性格も素直で、かっこいい、本当に素敵な青年が、こんな酷い病気にかからなくてはならないんだろう」
と、やり場のない怒りに駆られずにはいられなかった。

 個室の外の廊下で、彼のお母さんとよく話をした。
「児玉君は、自分の病気が癌であることを気付いているでしょうか?」
「いいえ。多分まだそう思ってないと思います。この前話をしていて、つい『なかなか良くならないねえ』と言ってしまったら、血相を変えて怒りまして・・・」
「・・・・・・」
「『藤田先生があんなに一生懸命にしてはるのに、そんなこと言ったらあかんやないか!』って言ったんです。先生のことを本当に頼りにしているみたいです。どうかよろしく御願いします・・・」
「・・・・・・」
彼に本当の病名を告知していないだけに、彼にそこまで信頼されているということを聞いてうれしかったが、それ以上に自分の無力さと嘘をついている罪悪感で胸が苦しく痛んだ。

<二月~三月>
「主人にも、息子の病気について話してもらえませんでしょうか?」
 ある日、お母さんから頼まれた。彼のお父さんは、彼が病気になる数ヶ月前に交通事故を起こし、かなり長い間意識不明の状態が続いた後、徐々に回復して、京都の病院でリハビリテーションをしていた。
「彼の病気のことは大体御存知なのでしょうか?」
「いいえ。話してしまうと、リハビリに差し障りがあるかと思いまして・・・」
「分かりました」

 土曜日の朝、内科外来の四診で、お父さんに初めて会った。お父さんは杖をつき、右足を引き摺りながら入ってきて会釈をされた。顔面の右目の下に大きな傷跡が残っており、事故の大きさを物語っている様だ。誠実そうにじっとこちらの方を見つめている。
「こちらの話していることは分かってくれるのですが、まだ自分では話せないんです」
 妻の言葉に、ウンウンと頷いておられる。
「実は・・・息子さんは、残念ながら悪い病気なんです・・・。・・・胃ガンなんです。もうお腹の中にも転移していて、手遅れなんです。後一、二ヶ月の命だと思います・・・」
 私がゆっくりそう話すのを聞いて、お父さんは、天を仰いで深い溜息をついた。両目からポロポロと大粒の涙がこぼれてきた。真っ赤に腫らした目で、本当なのかと、確かめるように私の目をとらえてきた。私がうなずくと、下を向き、唸り声を噛み殺しながら体を震わせ始めた。お母さんも涙を流しながら、ギュッとお父さんの肩を握りしめた。一家の大黒柱の交通事故に続いて長男の病気・・・。本当に気の毒な限りだった。

 IVHをしているにもかかわらず、彼は少しずつやつれていった。体は完全に痩せ細ってしまった。吐き気はさらに増悪し、一日中吐き気を感じており、しょっちゅうもどしていた。もう食事は全く入らなくなってしまった。顔もゲッソリと肉が削げ落ち、次第に土気色になっていった。何もしてあげれない、という暗い気持ちが強く、彼の個室に行くことはかなり辛かったが、自分に鞭打ち、一日に二、三回は彼に会いに行った。彼はいつもテレビを観ていた。全身倦怠感が強いためか、看護婦さんにはあまり口をきかなくなっていたが、私には色々と頑張って口を開いてくれた。両親と弟さんは、本当に献身的に彼の看病をされた。しかし、癌は着実に彼の命を喰い潰していった。ようやく冬が舞鶴から去って行き、風や陽の暖かさに春の訪れを感じるようになった頃、彼の命の灯は消えようとしていた。

<四月>
 最期の日が近付いてきた。四月に入って、脈が弱くなっていき、脱力感が強く、自力でトイレまで歩けなくなった。顔にも、死相が漂うようになった。
 そして、四月十四日――。
 朝、病室に入ると、彼は弱々しく壁にもたれ掛かっていた。その瞳には、もう輝きは残っていなかった。呼吸も絶え絶えに細い声を絞り出した。
「先生。もう手にも足にも力が入らないんです。こうして何もしなくてもえらいんです。本当にしんどいんです。先生・・・何とかなりませんか? どんどん悪くなっているような気がするんですけれども・・・・・・」
「・・・・・・」
 私は、彼の手を取って、何回もうなずいた。
「大丈夫だよ。今が一番苦しい時だから・・・・・・」
 もう、これまでに何回も何回も、繰り返し励ましてきた言葉だった。彼はそれを聞くと弱くうなずいた。
「そんなにしんどいんか?」
「ええ。力が入らへんで、もうこうして先生の手も握れないんです・・・・・・」
 彼の細い指が弱々しく、私の手の中で動いた。
「そうか・・・・。また、昼過ぎに来るから・・・・・・」
 しかし、彼と話をしたのは、それが最後になってしまった。

 昼前にポケットベルが鳴った。駆けつけてみると、もう意識はなく、白目を剥き、下顎呼吸になっていた。
「秀樹、秀樹、しっかりしなあかんよ!」
 お母さんが、しっかり手を握りながら、励ますように声をかけている。
「秀樹、秀樹・・・」
 十二時四十分。両親と弟と祖母に見守られながら、彼は眠る様に、ひっそりと息をひきとった。二十二歳の若さであった。両親の号泣が病室から流れ続けた。

 涙が止まらなかった。拭いても拭いても、次から次へと、涙が湧いてきた。数ヶ月間、彼と毎日接し、完全に感情が移入していたためか。彼に心から信頼されながらも、結局、命を救ってあげることのできなかった無力感のためか。半年間の間、ずっと、心にのしかかっていた重い責任感から解放されたその安堵のためか。死亡診断書を書きながらも、これまでの数ヶ月間の出来事が次々と思い出され、涙が溢れてきて止まらなかった。

(カルテの最後の部分より抜粋)
『彼は本当によく頑張ってくれた。状態が悪くなっていっても、決して怒りや不信感を見せず、最期まで、私を信頼してくれていた。弱音を吐くことも、苦しみを剥き出しにすることもなく、病気と、真っ向から闘っていた。本当に立派な、性格の良い青年だった。
 ああ・・・。何故、彼のような素晴らしい青年が、これほどまでに短命でこの世を去らなければならないのか・・・! あまりにも、ひどい、残酷な運命だと思う。今の医学の力では、「癌」の前では無力感しか感じることができない。一刻も早く、劇的に効果のある治療法を確立して、彼の様に悲惨な境遇にある人を救ってあげなければならないと思う。彼の笑顔や言葉を脳裏と胸にしっかりと焼き付けて今後の研究に励まなければ・・・。ずっと嘘をついてきて、それを信じてくれた彼に心から冥福を御祈りしたい。』


 月日は流れ、私は大学院に戻り研究生活に入ることとなり、舞鶴を去る日が近付いてきた。年が明けた一月中旬のある日、彼の御両親に案内して頂いて、彼の御墓参りに行った。久しぶりに御両親に会うことができたが、二人とも元気そうで、お父さんはその後のリハビリのお蔭で、かなり話もできる様になっていた。西舞鶴の山中にある静かな曹洞宗のお寺の山門から入ってすぐのところに彼のお墓はあった。寺の境内は、裏山に囲まれており、山の中腹まで、墓が群れ並んでいた。
 私は、彼の墓前に立ち、手を合わせて、頭を下げ、長い間静かに、彼の冥福を祈った。

「思い返してみても、患者さんたちの中で、彼のことが一番強く印象に残っています。本当に良い子やったし・・・」
「どうも有り難うございます。私も、お盆までは忙しく走り回っていたんですけれども、それから暫くして、寂しさがこみ上げてきまして・・・」
「そうですか・・・。私ももう、舞鶴を離れることになりましたが、彼のことを忘れずに、これから一生懸命に研究していくことが一番よい供養やないかと思っています」
「今日は本当に有り難うございました。先生、秀樹の思い出話もしたいし、近くでお茶でもどうですか?」
「喜んで」
 お母さんと話しながら帰りかけていたら、お父さんが、
「ちょ、ちょっと待って・・・・・・」
と言いながら、胸のポケットからタバコを取り出して火をつけた。
「お父さん、こんな所でタバコなんか吸わなくてもいいじゃないですか」
「いいや。秀樹に吸わしてやるんや・・・」
 お父さんは、口から煙をフーッと吹き出した後、タバコをお墓の上に載せて、
「それじゃ、またな・・・」
と言って目をつぶり、黙想した。タバコから一筋の煙が上がり、両脇に添えられた線香の煙と混じりながら、優しく彼のお墓を包んでいった。

(後記)
 時の流れは早いもので、彼を看取ってからはや二十年の月日がたった。
 臨床医の時代は私自身の希望もあり、多くの癌患者さんの主治医をさせて頂いた。しかし、残念なことにほとんどの症例で医学は癌の前に無力であった。亡くなっていった患者さんを救ってあげることのできなかった悔しさは、今でも深く心に残っている。看取らせて頂いた癌患者さんを一人一人思い出すことができるが、その中でも彼のことは年齢が若かったこともあり最も鮮烈に覚えている。
 実のところ、彼は今でも年に1~2回、私の夢の中に出て来る。夢の中でいつも彼は私をじっと見つめ、尋ねる。
「先生、癌は治る様になりましたか?」
「・・・・・・ゴメン、まだなんだ」

 彼は今でも私の中に生きている。確かに生きている。

 何とか彼のように癌で苦しんでいる患者さんを救ってあげたい。それが、私の「世に生を受けてなすべきこと」であると考えている。頑張らなければ。

updated : 2011/02/02