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YASUの呟き No. 23

アンジェリカの涙

2009年、ロンドン。アンジェリカとの最後の会話。
彼女は大きな瞳で僕をじっと見つめた。そして、大粒の涙を流しながら、僕に訴えた。
「ヤス、あなたはこの4年間、私を一度も褒めなかった。」

「とても悲しい。私の価値を認めなかったのね。あなたにはとてもよくしてもらったけど、その点が本当に残念だったわ。」

とても情熱的な女性だった。 スペイン人のアンジェリカは、ポスドクとして4年間をヤスラボで過ごした。Big hitはなかったけど、Molecular Biology of the Cellに筆頭著者として論文を発表。その研究成果もあり、母国スペインのラ・コルーニャ大学で独立ポジションを獲得した。帰国前、別れの挨拶を僕のオフィスで交わした時の最後の言葉だった。

アンジェリカは「自分のラボを持ちたい」という強く明確な目標を持っていた。ヤスラボの中でもよく働くポスドクだった。ただ気分の浮き沈みがやや激しく、働きぶりにアップダウンがあった。
ポスドクの最後の年、一緒に論文を書き、校正を始めたところで、
「ヤス、私は明後日から南米に1ヶ月ほど旅行に行くことにした。論文はあなたが仕上げて、投稿しておいてくれない?その間、リバイスも任せるわ。」
と言ってきた。
「??! どういうこと?」
「友達が南米旅行に誘ってくれているの。こんな機会は人生にもう二度とないと思うし、これを逃すと一生後悔すると思うの。」
「論文を投稿してから行けばいいじゃないか。筆頭著者として論文に責任を持つのは当たり前の話だろう。」
「でも、もうチケットは取ってしまったから。」
会話は平行線を辿り、結局、彼女は論文を僕に押し付けて南米へと旅立ってしまった。
彼女を褒めたことがなかったことは全く自覚していなかったが、この様なエピソードを今でも鮮明に覚えていることからも、僕自身が彼女の働きぶりやサイエンスに対する姿勢に完全に満足していなかったのだろう。

「どのようにラボのメンバーを褒めれば良いのだろうか?」
アンジェリカの言葉を受けてから、ずっと考えている。


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「ヤスは、あんまり褒めない」
その様な不満は、他のラボメンバーからも聞くことがある。
でも、僕は、自分なりの基準に従って褒めているつもりだ。僕には、ラボメンバーに達成して欲しい研究者としてのレベルがある。サイエンスへの取り組み方、productivity、勉強量、smartness、intelligence、新しいアイデアを思いつく力、プロジェクトの構想力・推進力、コミュニケーション能力、プレゼンテーション能力、人間力、などなど。
例えば、修士課程・博士課程・ポスドク・スタッフなどそれぞれの階層において達成すべきレベルを100と仮定しよう。もしラボメンバーが成長し、レベルが70から85に達し、100に大きく近づいた時は、しっかりと褒める。でも、1のレベルであった人が5のレベルに達したとしてもまだまだ100にはほど遠い。その様な際に、あえて褒めることはしない(もちろん成長を認識していることを示すことはあるが)。だから、度々褒められるメンバーもいれば、あまり褒められないメンバーも出てくる。でもそれは決してエコ贔屓ではなく、ヤスの基準に基づく判断なのである。僕が褒める時は、本当に心から褒めている時。僕の様子から、その点については、ヤスラボメンバーも理解しているのではないかと思う。でも、僕自身、この「ヤスの褒めスタイル」が本当に最も良い教育システムなのか、自信はない。
指導者によっては、それぞれのラボメンバーが少しでも成長した時にとにかく褒める、というスタイルの人もいるだろう。褒めて伸ばす、という指導法は確かに魅力的だ。でも、それだと1から4、4から6に成長した学生は褒められるが、60で足踏み状態が続いている学生は褒められない。それはやはり適切でないと思うし、それこそ「彼(あるいは彼女)はあんなにレベルが低いのにどうして褒められるのか?」とエコ贔屓ではないかと思われてしまう懸念がある。僕自身、レベルがかなり低い状態にある者を褒めることがなかなかできない。(正直者の?)僕にとって、それはどうしても「お世辞」になってしまい、心の籠った言葉にならないのだ。

指導者にとって、より重要なのは『愛情』なのではないだろうか。それぞれのラボメンバーとしっかりと向き合い、彼らの成長と幸福を願う。レベルの高い者にも、低い者にも同じように愛情を持って、彼らの能力やモチベーション、将来のビジョンなどを考慮しながら、それぞれのメンバーに適した指導をする。それが最も大切なのだと思う。申し訳ないことに僕自身、人間的に未熟なところが多く、時に感情を剥き出しにして怒ってしまうこともある(いつも反省してます)。また人と人のchemistryがあるので、少しとっつきにくいなと感じるメンバーがありえることも確かだ。でも、全てのラボメンバーを自分の家族、子供のように慈しむ気持ちを持つように心がけている。
「親の心子知らず」。僕としては、できる限りの愛情を持って接しているつもりだが、それが通じないこともある。彼らのことを思って、時に批判的な言葉をかけたり、厳しい態度を示すこともあるが、それをきっかけに心を開かなくなってしまったメンバーもいた。一方で、ヤスラボを卒業してから、「ヤスラボで受けた教育は本当に素晴らしかったと今になってよく分かった。ヤスさんが愛情を持って接してくれていたことも後から振り返ってしみじみ感じる。」と言ってくれたメンバーもいる。親が子供にかける愛は無償の愛。見返りを求めてはいけない。ラボメンバーに嫌われることは厭わず、彼らの成長のために、僕なりに愛情を持ってこれからもしっかりと、時には厳しく教育していきたい。

アンジェリカは、PIになりたいという強い気持ちを持っていたので、彼女をより高いレベルに導くべく、時に厳しく指導をした。しかし、その度に彼女は強く反発し、僕との関係が難しくなったことも少なくなかった。ただ、彼女は4年間の間に研究者として着実に成長していった。彼女が母国で独立ポジションを獲得した時には本当に嬉しかった。でも、アンジェリカは、ヤスラボの4年間で僕の愛情をあまり感じることができなかったのかもしれないな。


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アンジェリカがヤスラボを去って2年後、僕はアンジェリカの招待を受けてスペインのラ・コルーニャ大学を訪ねた。

アンジェリカが、満面の笑みを浮かべながら近づいてくる。
「ヤス、久しぶり!」
僕の目を見つめながら、彼女がしんみりと語りかける。
「ヤス、PIとして自分のラボの学生を指導する立場になって、あなたが私をどうして褒めなかったか、初めて理解することができたの。」

そして、強く、痺れる様なハグ。
僕の心は甘く痺れ、満たされていった。

updated : 2024/10/27